自分の好きな場所にいくということは、そこに行く以前にすでに気持ちがオープンになって肯定的になるから、
時と場合によっては不愉快に感じられることさえも許せてしまえるので、一事が万事楽しく過ごせるのであろう。
いつでもそんなふうに過ごしたいものではあるが。
ふらっと入った駅のそばの蕎麦屋。
きちんとした蕎麦の味だった。そして安かった。
やや薄いツユの味だったが、切り口のシャープな蕎麦の味を引き立てていた。
土地の持つ、ある種の気のバイブレーションなのだろうか?
微細な、科学では感知できないようないい振動が、全身を包んでくれるのだろう。
そんな思いがよぎる。
その振動が細胞の一つ一つに伝わり、身体すべてに伝わり、脳に、そして精神に伝わり、
私は喜びに満ち満ちる。
そこにいると、雨でも曇りでも、晴れていても雪でも、お腹がすいていても、満腹でもよし。
空腹ならあ、あれを食べよう、食べたら、ああ美味しかった。
たいしておいしくなかったとしてもおなかが満ちれば満足し、美味しかったならば笑顔いっぱいとなる。
何も食べられなくても気にならない。
ふらっと入った店の人と話すことも嬉しく、その時にいい応対であったならなおのこと嬉しい。
会話もドラマが何もなくても、不慣れな土地で静かに流れていく時間を感じる、それもまたいい。
何にでも二面性があるようだ。
表があれば裏がある。
前進があれば後退がある。
善があれば悪がある。そのように思えるが。
けれど善とも悪ともいえない中間、それを善と言えるか、はたまた悪と割り切れるか。
前進していないが後退もせず、しいていえば足踏みして動いているが移動はしていないという状態を、人は何というだろう。
限りなく薄く、余りに薄いために表も裏も定かでないような繊維があったら、
その魅力をどう感じるだろうか。
矛盾する事実の上を、ひたすらなめらかに軽やかに滑っていくこと。
そんなことができるのだろうか。
できるような気がする。
温かな雪が顔に当たっては溶け、また当たり、春の兆しの中で、青空と雪景色のただ中では
この世の不思議なことも、できてしまうような気がするのだ。
そう、豊かなお湯の音と足裏に感じるお湯の流れとが、幸せな気持ちをますます湧き立たせる。
惜しげもなく流れ去っていくお湯を目で追って、流れの輝きを見送ると目をつぶり、
私はお湯の中。
お湯の中で夢の中。
幸せに、揺れるのであった。
おお、なんという青空!
なんという日差し!
なんという、カムイミンタラ!
<白樺荘>の展望台に入れてもらった。案内してくれたスタッフのお嬢さんが驚いていた。
「私、まだ入ったばかりで、見たことなかったんです、こんな景色。お天気になってよかったですね~」と。
ものみなキラキラ。
痛いほど、黒く見えるほどの青空のもと、樺の木の皮がむけている。
ご主人を待つ犬の、艶やかに良く手入れされた毛並みと、その穏やかな瞳。
ああ、また来よう。ここに。
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