(2012年3月31日 1人泊 @8,550円)
母を連れていった北茨城の宿は温泉とは程遠かったので、私は欲求不満になってしまった……
でもその後の電話で
「おいしかったわ~ ほんとに嬉しかった! 」
そりゃよかった~
(またお願いね~)の気配満々。そして
「帰りに寄ったアメ横のおせんべいも安くておいしくてね~」
海のそばというだけで、これといった土産物もないようなところだったので、
それでは寂しかろうと帰り際に上野でアメ横の菓子屋に寄ったのだ。
母は大袋のせんべいとりどり、自分と孫との分をたくさん買い込み、
やけに目がキラキラしていた。
「安いわ~~~!」
「あのおせんべいもすごくよかったから、今度から帰りにアメ横に寄ろうね」
刺身&アメ横のせんべいの旅、
がお気に入りとなったようである。
母が喜んだのであるから、まあいいのであるが。
それとは裏腹に、私の肌はまともな温泉に入りた~い!
と訴えていた。
だけど今月は使いすぎてお金がないしなぁ……
我慢せねばなぁ……
そんなときに訃報が入った。
ちょっとショックで体が固まってしまう思いだった。
こういう時はなにかこう、本能的に人は動きますね。
気が付いたらスマホ持って電話してたの。
3日前、そして土曜日の1人泊の予約が取れる、とびっきりの温泉に。
土曜は荒れ模様、と天気予報では言っていたが、
強風で新幹線が遅れるほどとは思わなかった。
まず池袋で湘南新宿ラインが遅れ、しばらく待って各駅停車で大宮まで行くと新幹線が遅れていて、
気ままな一人旅だから、宿に電話して若女将にバス1本遅いので行くことを伝え
出がけにバッグに入れてきた
牧野富太郎の『植物 一日一題』を待合室で読む。
私は植物に関してのちょっとなごめるエッセーかな~?と思っていたのだが
この本は博覧強記の牧野先生が、1日1回、植物の名、特に漢字表記されたものと実際の植物が違うこと、
いかに間違いが多いか、それも植物学者たちの中で!という怒りと嘆きとを吐露したものであることが分かった。
一日一題というより一日一文句、の感あり。
で、予想に反して全然なごめず、
読みながらなんだか鬱々としてしまいました~ 知識を求める人にはいいかも。ちょっと現代離れしているが。
1時間遅れでやっと新幹線に乗ったときには、やれやれ。
そして牧野先生のことはさっぱりと忘れてしまったが。
湯船1つでいい。
早春の雪が残る風景の中で、服を脱ぐとまだ寒さが感じられ
暖房をつけていない脱衣所は静かで、換気扇のスイッチの場所は知っているので切ってしまい、
この寒さなら湯気がこもることもなく、お湯の音しかしない。
だれもいないから、内湯1つあればそこが私の宇宙になる。
まちこと正月に来た時も、訃報の直後だった。
そして眉間にシワが寄るような想念も、お湯と共に流れていくような内湯であった。
多分私は今回も、すべて雑事が洗い流されてほしいという思いにとらわれたのかもしれない。
湯船の中で過ごす2時間は、確実に生の時間から引かれていく。
それだけ老化が進み、2時間分死に近づく。
けれどこのお湯が肌にまとわりつき、ゆるやかに脇をすり抜けて通り、流れ去っていくことを繰り返す2時間の後には
なんと豊潤な記憶が残ることか。
この瞬間からしか得られない、贅沢で温かでやわらぎにみちた記憶。
記憶。
振り返ればやがて、隙過ぐる駒。
もっとも人によっては、2時間は単に時計の針が2メモリ進むことであろう。
もはや見慣れた夕食である。
食事の支度を終えて去っていった若女将が慌てて戻ってきて戸を開け
「今日の鍋は、シシ鍋です」
今日は3組が食堂、そして露天付きの部屋にはお子さん連れの4人の家族がお部屋で食べているようである。
私の隣のご夫婦が
「イノシシ、お父さんが獲ったのかしら」
「そうかもしれないね」
若女将のお父さんはハンターなのだ。
キュウリの脇に、生のフキノトウを刻み醤油をたらしたものがある。
少し箸の先でつまみ口に入れると
ほろ苦さと、そしてはっきりとしたエグミ、
それらを押しのけるような強烈な春の香りがあった。
忘れずに季節が巡ることへの、大地の小さな歌声のようなものを感じた。
翌日若女将に聞いてみると
「ここの玄関前の庭で採りました」
菜の花も緑鮮やかに、いつもの煮物の中で春の息吹を告げていた。
窓を開けて暗い庭からの風を受けながら、時々体を動かすと泡粒が湯面に上る静かな時間を楽しんだ。
もちろん誰か入ってきてもいっこうに構わないのだけれど、
独り占めできる優雅な時間だった。
自身の存在がなくなる一瞬があることが、よく考えてみれば不思議である。
翌朝は、春のはかなげな雪に覆われた景色となった。
日差しの中で、とろけるように消えていく雪。
ひっそりした廊下にも、微笑みのような柔らかな光が差し込む。
朝食前の風呂場には、まだ日差しが届かないが。
みるみるうちに降り積もっていた雪が消え去り、黒い土が現れる。
白く真綿のように、かそけき雪。
今年の新しい芽を取り囲みながら。
山の端から日差しが出てくると、排水のお湯の湯気がもうもうと立ち込めるのが見えてくる。
その向こう、川岸の道路に、時々車が通る。
湯気の向こうに、山の日常が垣間見える。
湯気の向こうに日常を感じるのは、私が穏やかな日常を過ごしているからである。
<変わらぬ日常>を過ごせない人々にとっては、立ち上る湯気の向こうにも絶望しか見出せないであろう。
たくさん存在するのだ。そのような人々が。様々な理由で。
その事実を、けして忘れてはならない。
そして……
私は……
このお湯の、虜になってしまったようだ。
この宿の創業者、林峰治さんの書である。
峰治さん、ありがとうございました。
耽溺しちゃった~!
ローレンス・ダレルの小説の中の一文
「 indulge but refine. 」
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