群馬 沢渡温泉 とらや旅館 一期二会の旅
前回中之条の町をバスで通った時に、気になる家を見つけたので、
駅前からバスに乗る前に行って見てきた。
木造の看板に漆喰で店の名前と装飾が施されている。
木彫に漆や金箔などの装飾の看板は当たり前にあるが、
漆喰の装飾をじかに木にのせているものを私は初めて見た。
両側で天使が羽を広げている。
何の店だったのであろうか。
かつて街道沿いには様々な店があったに違いなく、
それらの建物も今はすでになくなり、
けれど幾ばくか残り香のように、思いをはせさせてくれる看板と家の造りであった。
漆喰…… スタッコ……
人類が手に入れた模造の技法。
「1組お客さんを受けちゃっているんですけどね、いいですよ」
電話で女将さんはそう言った。
「リューマチがひどくなって膝が痛む日があるので、1日に1組が限度」と
前回泊まった時に言っていたので、私は少々不安だった。
宿に着いて女将さんに「リューマチのお加減はどうですか?」と尋ねると
「このところ痛むんですよ。忘れちゃうくらい全然痛まない時もあるんですけどねえ」
先に立って狭い階段を上がる女将さんに
「今日は私を入れると3人ですよね、食事は3階の部屋に運んでくれなくても、2階で食べられるところがあればそこで食べますよ」
「夫婦で車で来る人の予約を先にを受けちゃったんです。初めての人ですけど。
でもあなたをお断りするわけにいきませんからね。
娘が食事のお運びだけ手伝ってやるって言ってくれたから、大丈夫ですよ」
いや、断ってくれてもよかったのである、また違う日にすればいいのだから。
私は恐縮してしまった。
そして娘さんが手伝うと聞いて、ホッとしたのだった。
この前と同じ部屋に通された。
私は前回写した写真を数枚プリントして小さなアルバムにして持ってきたものを
女将さんに手渡した。
「あ! 私こんな猿みたいな顔をして! 恥ずかしい。化粧しとけば良かった!
でもいい思い出になります。
ありがとうございました」と、
嬉しそうであった。
縄文時代には湧出していたのではなかろうか、といわれる沢渡のお湯は、草津ともども源頼朝も入ったとの言い伝えもある歴史のあるお湯である。
一浴玉の肌。
虫刺されのかさぶたなど、するっと落ちていく。
女将さんは18歳の時に父親からこの宿を継いだそうである。
実母は彼女が1歳半の時に亡くなり、その後の再婚相手も早く亡くなり、3人目の継母と暮らしたとのことで
「誰だって自分の子供のほうが可愛いでしょ?」
この問いにはなんとも返答のしようがなかった。
「だから私はね、子供が大きくなるまでは絶対死ぬもんか、と思い続けてきたんです。自分の子供が継母に育てられるつらさを味あわなくてすむように」
沢渡温泉郷は昭和20年の3月、山火事からの火で炎上した。
戦前の木造3階建てのこの宿は、10日間燃え続けたという。
その年の8月、日本は終戦を迎えた。
父親の落胆は大きかったそうである。
もっとも、この年は日本中の人々が苦境に立たされたのであるが。
父親は、母親の違う3人の娘たちの中から長女の彼女に宿を継がせた。
「なんで私だけこんな貧乏くじ引いちゃって、って思いますよ。旅館なんかやってても苦労ばかりでちっともいいことないんだもの。
おまけにあの震災以降、こんな不便な温泉地になんか、だれも来ませんよ」
笑顔でそんなこと言われても……
「でも、来てくれた人とのいい出会いもたくさんあったでしょ?」
「あ、息子に東京の板前の就職先、紹介してくれた人がいるんですよ。その人はもう親戚のようにお付き合いしてくれてね」
女将さんの話は尽きない。
デジタルカメラで撮った写真を、パソコン上で写真加工ソフトを使い、カラーをモノクロに変換するのは簡単だ。
<カラー情報を破棄しますか?>というダイアローグボックスで<はい>をクリックすると、
一瞬の間があったのちに、モノクロームとなる。
その、一瞬の間、は、奇妙な揺らぎのような時間で、モノクロームとなった画像を見ても目にはまだカラーの残像が残っていて、脳はしばしの混乱に陥る。
視覚、つまり脳の情報が落ち着くと、過剰な、煩雑な情報が取り除かれた、ある異質のものが出現する。
そう、バルトのいう
<プンクトゥム>は、モノクロ写真でしか出来しない。
過剰さの代わりに、
揺らぎののちに現れる別のもの……
いったい何なのだろう?
それはともかく、画像をモノクロームにしたことで、そこからはじつに多くのものが立ち現れてくることに感動を覚えた私は、自分が撮った写真であるにもかかわらず、まるで他人が写した写真を見るかのような新鮮な驚きをもって見入ったのである。
これからはモノクロで撮ろうか。
最近のデジカメには、写す時点でカラー情報を入れないで、つまりモノクロモードでも撮れる。
過剰さをそぎ落としていくことによって見えてくるもの。
その追究こそが、いま私のやるべきことなのだと分かってきたのだった。
例えば、身体の過剰を、言ってみれば脂肪の過剰を落とすことによって、違いを実感する別の身体に変容できる。
新たに心肺への負担のなさと膝の痛みの解消と、そして軽やかさを手に入れたわけである。
私は鮮肉売り場で豚の三枚肉500gを眺め、あの塊8本分が減ったのちにいま得たもののことを思った。
モノクロームについて考えていると、
ルイ・マルの映画「死刑台のエレベーター」のワンシーン、
写真の現像液の中でユラユラと揺れる白い印画紙の上に、やがて恋人たちの寄り添い親密な喜びに満ちた表情の像が浮かび上がってくる、あのシーンを思い出した。
パリの街を、マイルス・デイビスの音楽をバックに、ジャンヌ・モローを一晩中彷徨い歩かせた挙句、
明け方駐車してある車に身を屈めさせ、そしてサイドミラーをのぞかせて…
(ミラー!)
「……ふけたわ……」
なんともしゃれた終わり方だった。
字幕は<ふけた>だったが、フランス語でなんと言っていたんだろう。
モノの逆襲もまたしかりで、差異性を戦略に迫ってくるモノたちを、無視と廃棄でなぎ倒すと、
広々した空間が現れてくるのであった。いや、現れてくる気がする、というべきか。
ここにかすかな望みがあるのかもしれない。
絶えることなく突き進むしか道はないようだ。
私にとっての、写真を撮る、という行為。
私にとっての、写真というものが持つ魅力。
デジタルの一眼レフカメラからは、鏡さえなくなっているのだった。
ミラー! ミラー!! 常に世界を左右逆に映すもの。
光と影を定着させる印画紙も現像液も
もはやなくなり、
ピクセルの集合で成り立つデータになっても、
ファインダーでなくモニターであっても、
長方形に区切られた空間を二次元に置き換えて、
シャッターを押す指の先端は、身体性の凝縮の一点であることは間違いない。
というか、幻想であっても……
間違いないと思いたい。
だがしかし、データの蓄積という、
いかがわしい過剰さがここにもある。
(データの一瞬での消去は可能だ。それはつねに蠱惑に満ちている)
「生きていて、人生って、あんまりいいことないですね。 どう思います?」
と、唐突に聞かれ、
人生ですか?
「そうですね……
もしつらい出来事を全部覚えているとしたら、私はきっと発狂したでしょうね。
でも、ありがたいことに、人間には忘れるという能力があるから」
彼女はしばし沈黙し、やがて、
頷いた。
狭い急な階段を降りながら、私は彼女に言った。
「長い間、お疲れ様でしたね。これからはお孫さんたちに囲まれて、楽しい時間をお過ごしくださいね」
「孫はね、疲れます。もう身体がいうこときかないので、疲れますよ」
「それでは、疲れない何か楽しいことを」
「嫁にきていたら、感謝されたでしょうね、きっと。宿を継いで60年近くですもの。でも嫁じゃなかったからね」
いつでもニコニコと、そして最後まで文句ばかり言ってた。
「では、どうぞお元気でお過ごしください」
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をして見送ってくれた。
一期二会
電車に乗り、バスに乗り継ぎ、彼女と出会った。
ため息をつく顔やその笑顔、遠くを見やる眼差しやリューマチが痛む膝を感じさせない階段の上り下り、
ぬか漬けの味を褒めたときの得意げで嬉しそうな顔を思い出す。
それらは氾濫するネットの世界や、face book や twitter などの
2次元のモニター上でのお付き合いやお知り合いでは絶対に得られない何かであって、
私が生きていく糧として常につかみ取りたいものである。
2012年10月末日をもって、この宿はその長い歴史に幕を閉じる。
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