神奈川 湯河原温泉 上野屋 で考えたこと
寺田寅彦の「伊香保温泉」
あるいは「伊香保」だったか。
彼が短い療養を兼ねて伊香保温泉に旅行した時のエッセーがある。
大昔に読んだので正確な記憶ではないが、
渋川から当時新しく走り出した乗り合いバスに乗って伊香保に行き、予約なしに入った旅館の従業員の冷たい視線やらすげないあしらいにしんなりとして、
もうちょっと親切であってもいいのではなかろうかと、
なんだか東京に帰りたくなってしまったり、何とか泊まることができた旅館でホッとしたり、
その旅館に泊まりにくる成金の客の態度や伊香保の温泉街の土産物屋、温泉宿の佇まいなどの描写を読むと、今も昔もほとんど変わらないのだなあと、興味深かった。
彼の泊まった部屋は階段の付近であったために、多分宴会でもあったのだろう、四六時中ドスドスと音が響き、
まあ普通ならば不快感に満ち満ちて宿に苦情を言うようなこの状況で、
寺田寅彦はふと、いったいこの階段は1日何回踏まれるのであろう?
という疑問を抱く。
そしてさっそく計算してその回数を割り出してみる。
私は、かつて日本にこんな素敵な科学者がいたことをたいへん嬉しく思う。
そのエッセーの最後は、
上野に戻って食事をした時に出てきた土瓶蒸しの汁がこぼれてしまい、
一目瞭然であるツルと土瓶の不具合が原因であることを見て
「どうして日本には科学的な発想が根付かないのであろう」という軽い嘆息のような終わり方をしていたような記憶がある。
短いエッセーでも伊香保の情景や冷んやりとした空気感が伝わり、色づいた木々や冬の気配が感じ取れて、遠くの山々のピリリとした稜線が、ありありと浮かぶような筆致だった。
樋口一葉の小説の女性の描写で
「髪は丸髷、平打ちの銀の簪、襟は何で何色、帯と着物は何々……」
と書かれていると、
その2行で、その女性が既婚か未婚か、どんな顔立ちでどういう雰囲気を醸し、そしてその嫁ぎ先の資産に至るまで想像できて
つまりはその時点での一人の人間の人生を読むことができる。
いまの小説で
「髪は明るい茶色に染めていて靴はフェラガモ、左手にはヴィトンの大きなバッグを提げ右手でスワロフスキーデコ盛りキティーちゃんのピンクのiphoneで電話している女の子」
と書かれても、その女の子がブクロのお仕事レディーなのか、学習院大学の学生なのか、はたまたキティーちゃん好きのアメリカ人の女の子なのか、ぜーんぜん分からないのである。
樋口一葉の直筆の手紙の文字は、もちろん毛筆であるが、
その字を見ると、才気煥発、男勝りの力強い、ああ、これは相当に負けず嫌いだったんだろうなあ、という文字である。
水ぐきのあとも麗しい女性的な文字を書いたのは与謝野晶子で、その細く流れるような美しい文字の手紙を貰って、そこに「みだれ髪」なぞと書かれていたら、男はさぞかしメロメロになったことだろう。
多分鉄幹はずーっとメロメロだったに違いない。
子沢山だしね~
文字というのも不思議なもので、人はそれぞれ個性のある違う文字を書くのに、時代の流れの中で見ると、ある傾向がある。
ちょっと前に若い人が書いた丸文字などもそういうものなのだろう。
いまやその丸文字さえ消失し、早晩手書きの文字は日本から消えるのかもしれぬわね。
もう、郵便受けに封書があって、その宛名書きの文字を見た瞬間に覚えるときめきなぞ、遠い過去の遺物となりにけり、で。
メール着信音で即開いてみて
「好きだよ ハートマーク」 のほうが、手っ取り早い。
私は、昔は良かった、などと言うつもりはさらさらない。
人類は変わるべくして変わるのである。
恋愛ができない、人を好きになるという感情がわかない、という若者はこれからどんどん増えていくことだろうし、
生理学的には、無精子症や不妊症が増えていくことだろう。
一方で、iPS細胞で究極の再生術を手に入れた人類には、
果てしなく不気味なクローンの未来が待っている。
ノーベル医学賞受賞で一躍時の人となった山中教授をテレビの映像で度々見ると、
謙虚で私利私欲がなく、ひたすら「苦しんでいる患者さんたちのために」研究を続け、
国の援助が少ないのを自身のフルマラソン完走で寄付をつのり完走し、
家庭では良き夫であり父であり壊れた洗濯機もなんとか直そうとし、
授賞の感想を聞かれると先達の学者を称え、自分の給料や名誉のことよりも不安定な部下の環境を憂い、部下たちには時に厳しく常に温かく、そしてユーモアを交えて明るく接し、
いったいこの人には欠点はないのか?というくらい人徳のある姿が放映されているのであった。
iPS細胞、という、人類にとって
「夢」だったことが実現される幕開けである。
その開発者が、マッドサイエンティストではなく、
こんなクリーンなイメージの科学者だったことが、ある意味皮肉のように思える。
今から人類は、
クローンに向かうのである。
その直後に、「私、iPS細胞を使って手術しましたよ~」というおじさんが出現し、
これまた清潔感溢れる山中教授とは対象的な、とんでもなく胡散臭いヘンなおじさんだった。
記者に取り囲まれてやたらニコニコしている姿ののちに、
雲行きが怪しくなり、突っ込まれてペシャり、天を仰いでキョロキョロする目や、あるいは目をつぶって貧乏ゆすりする足やら、
その足にはいているだらしなくたるんだ靴下、挙げ句の果てに小さな声で
「舞い上がってしまって、嘘つきました」
という子供じみた幕切れに至っては、もはや滑稽感を超えてちょっと哀れであった。
私は想像する。
未来の歴史の中でこのおじさんの珍事は、「偉大なるクローンの歴史の始まりに対する人類の最後の悪あがきだった」と記されるのではないだろうか、と。
それはそうと……
手紙……
あの軽い小さな封筒からは、なんと豊かな魅惑と期待が薫りたっていたことか。
私たちはあの胸のときめきを知る、最後の世代なんだろう。
フランツ・カフカが恋人のフェリーツェ・バウアーに送った膨大な量の手紙。
それは全集の中の分厚い1冊の本にまとめられている。
ほぼ毎日のように送られてくるカフカの手紙に、フェリーツェはどんなふうに返事を書いていたのやら。
フェリーツェの返事のほうは、関係が終わったときにカフカがさっさと廃棄してしまって残っていないので
窺い知ることができない。
そしてカフカは、フェリーツェを思い出すときに、
その顔よりも、彼女の金歯を思い出していたようである……
口の中でキララッと光り輝く金歯……
カフカはたくさん婚約したが、一度も結婚しなかった。
後年、夫がいたミレナ・イェセンスカに恋をしたカフカが彼女に送った手紙も大量に残されていて、
これも全集に入っている。
カフカは友人に恵まれていたようで、友人たちの中の一人、マックス・ブロートが、ほとんど世に知られていなかったカフカの遺作、手紙類などをまとめているのだ。
関係が終わっても、なぜフェリーツェとミレナは、カフカからの手紙をとっておいたのだろう?
と、私は考える。
その並はずれて膨大な量ではないだろうか?
確かフェリーツェには700通以上、ミレナにはその半分くらいである。
ミレナはナチスの強制収容所で亡くなるが、カフカの手紙をすべて誰かに託したのだ。
そんな努力をしてまで、なぜ取っておくのか?
あまりの数の多さに、彼女たちは処分できずにいたのではないだろうか。
700通燃やすって、大変よね~
周りから火事かと思われるんじゃないだろうか。
そして、やはりかつての恋人が自分に宛てて書いた世界でただ一つのもの。
燃やせない…… 捨てられない……
どうしよう……
持っているしかない。
数の勝利。
(私は捨てちゃうけどさっ 多分)
世に知られるカフカ像、難解で不条理、とされるそれらの作品は、
実はカフカにとってはユーモア小説だったのかもしれない。
カフカは書き進めた小説を、毎晩友人たちに読み聞かせて楽しんだらしい。
「グレゴリー・ザムザは、ある朝起きたら大きな虫になっていた。」
「えー!? な~んだそりゃー!! わっはっはっは~」
友人たちは笑い転げて喜んだようだ。
ジミジミと保険会社で働くカフカの姿を知っている友人たちにとって
『城』も『変身』も『審判』も、
「えー!? な~んだそりゃー!! お前、自分自身を反映させてストレス解消しているな~
わっはっはっは~」
腑に落ちる。
言葉の、文学の力は、まだ残っているのだろうか。
ディスプレー上の光の点で現れるパソコンやスマホの文字を読み、1日を過ごす若い母親たち。
子供を泣きやますためにスマホの動画を見せる母親の意識の中には、
たとえば文字を書くことによって紙と鉛筆と手に伝わる摩擦や、
泣きじゃくる子供と触れ合いながら笑顔になっていく我が子との皮膚感からしか得られないものが、
もはや喪失しているのかもしれない。
そう、<モノ>の逆襲が始まっているのだ。
最近のデジカメは、しろうとに下手な写真をけして撮らせてはくれない。
10人いたら10人の写真がまったく同じようにピントが合い色が鮮明で、構図も遠近感も空気感も、
そこに流れた<時>さえをも、
同じように撮らせることを密かに強要してくる。
私は……
断固それにあらがう。
私の所有するカメラの、すべての<オート>と<全自動>と<最適>をオフにして
あらがってみる。
私の<時間>を<モノ>から奪還するために。
無駄な努力と分かっていても……
努力するかしないかは、大違いだ。
かろうじて。
しかし、何に向かっての努力であろう?
そして、そのことを書くという行為にもまた空しさを覚えるが……
〈書く〉と〈書かない〉とは、大違いだと……
思いたいのだ。
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